
健康塾クリニック 院長
鳥越 勝行 先生
とりごえ まさゆき
1966年、福岡県出身。東北大学情報工学科を卒業後、トヨタ自動車に入社。 その後、名古屋大学医学部に入学。卒業後は、豊田厚生病院など愛知県内での勤務を経て、2022年10月に健康塾クリニックを開院。
そんな感覚を抱えながら働いている社会人は少なくありません。
少しの意識と行動の変化が、心の健やかさを取り戻すきっかけになるかもしれません。
なぜ忙しいと「心を亡くしてしまう」のか?
「忙しい」という漢字は、「心」を「亡くす」と書きます。
この言葉には、ただ単に予定が詰まっているという意味だけでなく、“心のゆとり”を失いやすい状態を象徴的に表しているという側面があります。
古くから、日本語には「言霊(ことだま)」という考え方があり、言葉の構成や響きに深い意味を込める文化があります。「忙」という字が「心」と「亡」で成り立っているのは、単なる偶然ではなく、“心がどこかへ行ってしまうほどに余裕がない状態”を表しているとも解釈されてきました。
もちろん、「忙しい=悪いこと」と決めつけるわけではありません。やりがいや充実感を感じる忙しさもあるでしょう。しかし、心のケアや感情の整理が置き去りにされるような忙しさが続くと、知らず知らずのうちに「心を亡くす」状態に近づいてしまうことがあります。
では、なぜ多忙な生活が私たちの心の余裕を奪い、幸福度を下げてしまうのでしょうか?
脳が「処理」に追われて感情を感じにくくなる
忙しさに追われているとき、脳は常に「やらなければならないこと」の処理に集中しています。タスクの優先順位をつけたり、予定を管理したり、問題を解決したりと、いわば“処理モード”でフル回転している状態です。
この状態では、感情を丁寧に受け止めたり、内面の変化に耳を傾けたりするための“思考の余白”が失われてしまいます。たとえば、「今日、少し悲しかったな」「嬉しかったな」といった小さな感情が認識されないままスルーされ、次のタスクに飲み込まれていくのです。
こうして感情の処理が後回しになると、自分の内面の変化に気づきにくくなり、「なんとなく疲れている」「何をしても満たされない」といった、漠然とした不調感につながっていきます。
慢性的なストレスが幸福度を鈍らせる
忙しい日々が続くと、私たちの身体は慢性的なストレスにさらされ、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌が持続的に高まります。この状態が続くと、脳の感情を司る部位に悪影響を及ぼし、情緒が不安定になったり、不安やイライラを感じやすくなったりします。
また、日常の中でどれだけ「やるべきこと」をこなしても、達成感や喜びを感じにくくなるというのも、慢性的なストレスの大きな特徴です。表面上は順調でも、心の奥底では“満たされなさ”が広がっていると感じる方も少なくありません。
自分を大切にする習慣が奪われる
忙しさは、ときに私たちから“自分を大切にする時間”を奪ってしまいます。まず削られるのが、食事・睡眠・休息といった基本的な生活習慣。時間がないからと食事を適当に済ませたり、睡眠時間を短くしたりすることが、当たり前になっていないでしょうか。
また、自分の気分を整えるための趣味やリラックスタイムも、「贅沢」として後回しにされがちです。こうした小さな“自己ケア”の欠如は、「自分の機嫌を取る」余裕を失わせ、自己肯定感の低下や精神的な疲弊へとつながります。
そもそも幸福度や「幸せ」とは何か?
「もっと幸せになりたい」「今の自分は幸せだろうか」と考えることは、多くの人にとって身近な問いです。しかし、いざ“幸せ”の定義を言葉にしようとすると、意外と難しさを感じるかもしれません。
幸福には、単なる一時的な快楽とは異なる深い構造があります。その本質は、「心理的な幸福」と「身体的な幸福」という2つの側面から成り立っています。どちらもバランスよく満たされてはじめて、人は「幸せ」を実感できるのです。
心理的な幸福とは
心理的な幸福とは、心の中にある安心感や満足感、自己肯定感などから生まれる穏やかな感情のことを指します。これは、「楽しい」「嬉しい」といった一時的な感情とは異なり、長く続く心の安定が特徴です。
たとえば、信頼できる人とのつながりや、自分らしくいられる場所を持っていること。他人と比べることなく、自分を認められる感覚。それらが心理的な幸福感を育てる大きな要素となります。
心理学の分野では「主観的幸福感」という概念があり、これは「ポジティブな感情が多く、人生に満足している」と感じている状態を意味します。つまり、自分自身の内側にある“安心できる居場所”を持っているかどうかが、幸福感に深く関わっているのです。
身体的な幸福とは
一方で、心の状態に大きく影響するのが、身体の快適さです。どれだけ気持ちを前向きに保とうとしても、睡眠不足や体の不調が続けば、幸福感そのものが揺らいでしまいます。
身体的な幸福とは、良質な睡眠、適度な運動、規則的な食生活などによって得られる“体の快適さ”を指します。朝にすっきりと目覚められること、体が軽く感じられること、食事を美味しく楽しめること。こうした一つひとつが、幸福の土台を支えてくれます。
実際、慢性的な疲労や不眠があると、感情の起伏が激しくなったり、ネガティブな思考に陥りやすくなったりします。つまり、心の健康を支えるうえで、身体の健康は切り離せない要素なのです。
このように、幸福とは心だけで成り立つものではなく、心と体の両面が整っていてはじめて、本質的な満足感が得られるものです。次の章では、そんな幸福度を日常の中でどう高めていけるか、具体的な方法をご紹介していきます。
社会人の幸福度を高める5つの方法
日々の仕事や人間関係に追われる中で、「なんとなく満たされない」「心に余裕がない」と感じる社会人は少なくありません。忙しさに飲み込まれてしまう前に、自分の幸福度を意識的に高める行動を取り入れることが大切です。
ここでは、特別な準備や大きな時間を必要とせず、日常の中でできる5つの実践的な方法をご紹介します。
①「余白時間」を意識的にスケジューリングする
1日をスケジュールで埋め尽くすのではなく、あえて“何もしない時間”を確保することが、心の整理に役立ちます。たとえば朝の5分、夜の10分でも構いません。スマホを手放してぼーっとするだけで、思考が整い、感情の変化にも気づきやすくなります。
この「余白」は、脳のリセットにもつながり、創造力や集中力の回復にも効果的です。忙しい日々だからこそ、意識的に立ち止まる時間が、心の健やかさを取り戻す鍵になります。
②感情を書き出す「1行日記」習慣をつける
その日感じたことを、たった1行で良いので書き留める習慣を持つことは、自己理解を深めるうえで非常に有効です。「今日はなんだか疲れた」「嬉しい言葉をかけられた」など、短い一文でも十分。
言葉にすることで感情が整理され、幸福感が高まるという研究結果もあります。手帳やスマホのメモアプリなど、自分に合った方法で気軽に続けられるのがこの習慣の良いところです。
③人との“つながり”を意識して持つ
多忙な日々の中では、どうしても人との関わりが表面的になりがちですが、ちょっとした雑談や共感のやり取りが心を温めてくれます。たとえ短時間でも、「わかるよ」と言ってもらえるだけで気持ちは軽くなるものです。
人とのつながりは、オキシトシンと呼ばれる“幸福ホルモン”の分泌を促すともいわれており、精神的な安心感をもたらしてくれます。同僚との会話、家族とのやり取り、友人とのLINEなど、小さな接点を大切にしましょう。
④デジタルデトックスで“思考の渋滞”を解除
スマートフォンやSNS、メールの通知に常に反応していると、脳は休む暇を失い、無意識のうちに疲労を蓄積してしまいます。情報過多の現代では、意図的に“デジタルから離れる時間”を設けることが、思考の整理や感情の回復に不可欠です。
たとえば寝る前の30分、スマホやPCを触らないようにするだけでも、脳のオーバーヒートが鎮まり、睡眠の質も向上します。1日の終わりに「自分の時間」を取り戻すことで、幸福感の回復につながります。
⑤「心のプロ」に頼るハードルを下げる
忙しい社会人にこそ取り入れてほしいのが、心の専門家によるサポートです。心療内科やカウンセリングというと、何か“深刻な問題”がある人が行く場所と思われがちですが、実際には「ちょっと疲れた」「誰かに聞いてほしい」と感じた段階で活用するのが理想的です。
とくに近年では、オンラインで気軽に相談できるサービスも増えており、場所や時間の制約なく利用しやすくなっています。定期的なメンタルケアを取り入れることで、ストレスを溜め込む前に心のバランスを整えることができます。
身体的な幸福を上げるためにできること5つ
心の健康と同じくらい、身体の健康も幸福度に深く関わっています。体調がすぐれないときや、疲労が溜まっているとき、人は物事をポジティブに捉えにくくなります。逆に、体が整っていると、自然と心も前向きになりやすいものです。
ここでは、身体的な幸福度を高めるために、忙しい社会人でも実践しやすい5つの基本習慣をご紹介します。
① 運動習慣を持つ
運動は、身体の健康だけでなく心の健康にも大きな効果をもたらします。ウォーキングやストレッチ、軽い筋トレなどの運動をすると、セロトニンやエンドルフィンといった“幸福ホルモン”が分泌され、気分が安定しやすくなることが分かっています。
特に朝の軽い運動は、自律神経を整える効果もあり、1日のコンディションを整える助けになります。無理なく続けられる範囲で、日常の中に体を動かす時間を取り入れてみましょう。
② 睡眠を“削らない”
「忙しいから睡眠時間を削る」という選択は、長期的に見ると心身へのダメージが非常に大きくなります。睡眠負債が蓄積されると、集中力や判断力が低下し、イライラや不安感が増すなど、メンタル面への悪影響も顕著です。
睡眠は“回復の時間”であると同時に、“感情を整える時間”でもあります。質の良い睡眠を確保することは、幸福度の土台を支える行為です。就寝前のスマホ使用を控える、決まった時間に寝るなど、小さな工夫から始めてみましょう。
③ 栄養バランスの整った食事を心がける
「忙しいから」と食事を適当に済ませる習慣が続くと、知らず知らずのうちに栄養が偏り、心身のバランスが崩れやすくなります。実際、ビタミンやミネラルの不足は、情緒の不安定さや疲労感と関係があるとされます。
一汁一菜を意識するだけでも、栄養バランスは整いやすくなります。食べることは自分を大切にする行為のひとつ。体が喜ぶ食事を丁寧にとることで、自然と心も満たされていきます。
④ 定期的に体の不調をチェックする
社会人になると、仕事の忙しさを理由に、自分の健康チェックを後回しにしがちです。しかし、忙しい人ほど、体調の変化に鈍感になりやすい傾向があります。違和感があっても「気のせい」と済ませてしまい、後に深刻化するケースも少なくありません。
最低でも年に1回の健康診断や、女性であれば婦人科検診など、自分の体のメンテナンスを“習慣化”することが大切です。「病気になる前に防ぐ」という意識が、安心感と幸福感につながります。
⑤ 必要に応じて医療機関を活用する
「このくらいで病院に行くのは大げさかも…」とためらうことはありません。小さな不調を放置せず、早めに専門家に相談する判断力こそが、心身の安定につながります。
医療は“最後の手段”ではなく、状態が悪化する前に活用する“予防のパートナー”です。現代ではオンライン診療なども選択肢に加わっており、忙しい中でも通いやすくなっています。「プロに頼ることは、自分を大切にすること」だと捉え直すと、受診へのハードルも下がるでしょう。
幸福度を高めるには、「自分の心に気づくこと」から
多くの人は、幸福を「目に見える成果」や「他人との比較」によって測ろうとします。昇進した、収入が上がった、SNSで羨ましがられた。たしかに、こうした達成や評価は一時的な満足感をもたらすかもしれません。
しかし、本当の幸福度とは「何を得たか」ではなく、「どう感じているか」—つまり、心の状態そのものです。どれだけ多くを手に入れても、自分の心が満たされていなければ、幸福とは言えません。
他人の価値観や社会の常識に合わせるのではなく、「自分にとって、なにが心地よく感じられるか」を基準にすることが、幸福度を高める第一歩です。そのためには、まず「自分は今、どう感じているのか?」「何に疲れていて、何に癒されているのか?」と、自分の心に問いかけてみることが必要です。
忙しさに埋もれていると、自分の感情に鈍感になり、気づけば心が麻痺していた、ということも珍しくありません。だからこそ、立ち止まる時間、心の声に耳を傾ける時間を意識的に取り戻すことが、人生の幸福度そのものを大きく変えていくのです。
自分の心に気づくことは、決して難しいことではありません。朝の深呼吸、帰宅後の静かな数分、寝る前の小さな内省。そうした日常の中の“余白”に、心は静かに姿をあらわします。
あなたにとっての「心地よさ」は、どんなときに感じられるでしょうか? それを見つけることこそが、忙しさに左右されない、本質的な幸福への近道です。